インターネットへのアクセスは人権か?

瀧口範子(フリージャーナリスト)

 年明けから、「インターネットへのアクセスは人権か?」という議論が盛り上がっている。

 ことの起こりは、昨夏に国連の特別報告書が、「インターネットは、民衆が正義と平等、説明責任、人権の尊重を求める際に核となる役割を果たしている」と記したことだった。

 これはもちろん、北アフリカや中東で起こった民主化運動「アラブの春」で、インターネットやソーシャルメディアが多用されたことを受けたものだ。その後、先進国でも「ウォール街占拠運動」が起こり、そこでもインターネットを通じて組織化や寄付金集めなどが行われ、これに同意する機運が高まっていたわけだ。

 ところが年明けに、グーグルの副社長で「インターネットの父」と呼ばれるヴィント・サーフがニューヨークタイムズ紙に意見記事を発表した。曰く、「インターネット・アクセスは人権なんかじゃない」。

 サーフはインターネットの良心として敬われ、テクノロジーにも精通した人物。それも単なる商業的な立場からではなく、未来永劫続く世界市民の視点からものを言う人間だ。その彼が、人権ではないと言い切ったことで、やおら議論が活発化しているのだ。

 サーフの意見を要約すると、インターネットは確かに重要だが、それは人権を守るための道具として重要なのであって、人権そのものではない、というもの。ある時期の特定のテクノロジーを人権と称してしまったら、今後も間違ったものを人権と定めてしまうことになりかねない。人権とは、拷問からの自由や見解の自由など、人間が健全で意義ある人生を送るために不可欠なもの、もっと高尚なものだ、と彼は言うのだ。

 彼の意見は、なるほどと思わせる。フランスやフィンランドでは、すでに人権に定められているのだが、インターネット誕生に貢献したこの人物でも、人権はもっと崇高で、インターネットといっしょくたにしてはならないと言うとは、冷静なのだなあと感心したのだった。

 だが、少し後になって痛感したのは、こんなことで感心するとは私も甘いということだ。というのも、その後テクノロジー業界内外からあれこれと筋肉質の意見が出てきたからである。しかもそれらは必ずしも、サーフの意見に同意してはいないのである。

 いくつか挙げてみよう。

 たとえば、市民権との比較がある。サーフは人権ではなく、市民権としてならば議論の余地があるという意見を述べていた。だがこれに対しては、市民権を付与するのは政府で、政府に全幅の信頼を置くのが間違い、という意見があった。時の政府の意向次第で、アクセスなどどうにでも左右されるというのは、確かに中国などの様子から証明済みだ。

 また、インターネットは独立した道具ではなく、もっと大きなシステムであり、われわれの生活の実現にすっかり統合されているという意見。もはや道具と権利とに分けられないという見方だ。

 さらに、アムネスティー・インターナショナルの職員がこんな反対意見を出した。独裁体制国家が夜間外出禁止令や厳戒令を発令することで、町の広場に行って集会を開いたり、自由に意見を交換したりする機会を阻むのと同じように、インターネットのアクセスを阻めば、人命や生活に直接の脅威を与える地域もある。彼は「私やサーフ氏には無関係でしょうが」と皮肉っている。

 正直なところ、この手の議論は概念的で頭が痛くなる。だが、少なくともいろいろな意見から感じられたのは、インターネット・アクセスへの渇望には、もはや想像を超えるような温度差が生まれているのだということだ。ひょっとするとこれはインターネットの父にも計り知れないことかもしれないし、日本やアメリカのように基本的に平和ボケした環境ではそれを知る由もないのだろう。われわれは、インターネットにも限られた可能性しか見ていないのだろう。「みんなとシェア」以上のところへ行き着くことが必要だ。

 それはともあれ、サーフに対する反対意見の中でもっとも気に入ったのは、「インターネットを人権にしないことの利点を説明しそびれている」というもの。いったん普遍的なアクセスが人権になってしまったら、それを実現するための膨大なコストを一体誰が持つのか、という問題が出てくる。政府はのらりくらりと敷設するしかない。そもそも万人にアクセスが約束されたテクノロジーは競争を阻み、迅速に発達した試しがないと、その意見は指摘している。